大光院(名古屋市中区大須2)
ある日、ふと扉を開けたら、そこには時間軸の異なる世界が広がっていた。
2017年7月29日に開催された「ナゴヤ面影座第二講」。その日、大須・大光院は、古代と未来を結ぶ異界の入口と化した。案内人は、下掛宝生流ワキ方能楽師・安田登氏。漢詩漢文の専門家として、漢和辞典の編纂にも携わったという異色の経歴の持ち主だ。現在も能楽師として活躍する傍ら、古代文字の研究者として活動し、『論語』を読む寺子屋も全国各地で開催している。今回のナゴヤ面影座は、能、シンギュラリティ、甲骨文字、論語、呼吸法と博学多才な氏に導かれて異界を巡る旅となった。
安田登氏
あの世とこの世を分く
講のテーマは、「あわい」。あわいとは、内と外をつなぐ場所。住宅で言えば縁側のような空間を指し、内でもあり、外でもある。そんなあわいの世界の住人が、能楽のワキ方だ。安田氏によると、ワキとは脇役の意味ではなく、もともとは「分く」から来た語。能楽の夢幻能では、霊的な存在であるシテ方がワキの前に現れて物語を語り始めるが、あわいに住むワキがいればこそ、あの世とこの世に分けられた人が会うことができるのだという。
間(あいだ)とは異なる、あわいの感覚。重なりあいながらも、交わることのないもの。それは、まさに今、私たちが感じている時代感覚ではないだろうか。
安田氏は、現代を「あわいの時代」と呼ぶ。2045年、シンギュラリティ(技術的特異点)の到来が予測されている。全人類を凌駕する超越的な知性を持ったAI(人工知能)の誕生。今までの常識が通用しない時代を前に、漠然とした不安を抱いている人も多いだろう。しかし安田氏は次のように語る。「人類は過去においても常識が一新されるあわいの時代を乗り越えてきた。メソポタミア文明では楔形文字が、中国文明では甲骨文字が生まれたが、紀元前の人類にとって、文字はまさにAIだった」と。
氏の言うとおり、人は文字を手に入れることで記憶を外在化し、脳の領域を知的な活動に存分に使えるようになった。そう、あわいを越えて、人類は大きな一歩を踏み出したのだ。
人類が越えてきたあわいの時代を知る手がかりとして、安田氏は一つの文字に光をあてる。それは「心」。実は、甲骨文字の中に「心」という文字は存在しない。そこに意味を見出した安田氏は、「古代の人々は幼子のように、過去や現在という時間感覚がなかった。そのために悲しみも感じなかったのではないか」と推察する。心にとらわれる現代人にとっては想像もつかないが、確かに心が未発達だった幼い頃は、恋も愛も悩みも知らなかった。悲しみを抱えることになったのは、心という器ができたからなのだろう。
さらに興味深いのは、この存在しない文字に着目した安田氏ならではの『論語』の解釈だ。私たちの知る『論語』は、伝承されてきた孔子の言行を、その死から数百年後に文字として記録したもの。ところが、後世に成立した文字の部分を、孔子の生きた紀元前500年頃の文字に置き換えてみると、数々の名言が新たな意味を持ち始める。これまで口承されてきた事柄を、記憶として留める文字。しかし、記されていないものや変化したものの面影を見つけ、見つめることで、違う世界が見えてくる。それは、あわいの時代を生きるためのヒントになるはずだ。
シンギュラリティの構成要素の一つにあげられるAR(拡張現実)。安田氏は、日本人をARに向いた民族だとも語る。だからこそシンギュラリティの時代は、日本にとってチャンスなのだと。見えないものを見る力、聴こえないものを聴く力は、多くの日本人が備えている。例えば、能舞台の背景には松だけが描かれる。にもかかわらず私たちがそこに見るのは、能で演じられる幽玄の世界だ。座の結び、安田氏による『夢十夜』の語りでも、仄暗い漱石の世界を参加者はそれぞれの目の前に映じて見ていたのではないだろうか。
ナゴヤ面影座の第二講は、あわいの時代の名古屋に生きていることを、あらためて認識させるものだった。今はないが、かつてこの地に存在したもの。かつてはなかったが、今はこの地に存在するもの。あわいを生きる私たちは、ない世界とある世界を自在に旅するワキではないか。潜在するAR能力を発揮して時空を行き来すれば、いにしえの面影だけでなく、未来の面影も今に見つけることができるかもしれない。ワキとしての視座から名古屋を見渡せば、そこには新しい世界が開けてくる。