10月31日、「都市の祝祭 Art and Cities(アートアンドシティーズ)」をテーマに、72日間に渡って開催された国際芸術展「あいちトリエンナーレ2010」が閉幕した。名古屋市内4箇所のメイン会場と舞台公演、イベントに訪れた来場者は57万2023人。当初目標の30万人を大きく上回る結果となった。30万人という目標は同じ都市型の芸術祭「横浜トリエンナーレ」の入場者数30万6633人(2008年)から想定された数字だが、開幕から多くの来場者に恵まれ、10月始めには目標人数を突破、最終週を待たずに50万人を超える数字を記録した。
トリエンナーレ事務局では、通常の芸術祭・美術展に比べ小中学生の来場者の割合が多かったこと(全入場者の14%)などが、数字の伸びに繋がったと見ている。アート鑑賞を目的とした旅行者をターゲットにするだけではなく、家族が休日を楽しむ選択肢にできるアクセスのいい会場や、仕事の終了後でも見られる多くの舞台公演が期待通りの効果を上げたようだ。
ハイレベルなパフォーミングアーツ(身体表現による舞台芸術)の上演は、現代アートの展示とともに、「あいちトリエンナーレ」の大きな特徴、個性となった。その会場は劇場の舞台、ギャラリー、道端など実に多彩。数週間に集中する演劇祭ではなく、2か月以上もの長い期間の中、会場を変えて行われる舞台は、かつてない試みだったと思われる。興味深かった作品をいくつか紹介したい。
パフォーミングアーツの舞台公演は、演出家・平田オリザと大阪大学石黒浩研究室の「ロボット版『森の奥』」から始まった。トリエンナーレに「愛・地球博のようなビッグイベントの活気を再び」と期待した愛知県の人々にとって「科学と芸術」を複合した演劇は、まさしく「あいちを舞台にした祭典の幕開け」にふさわしいものだった。
2体のロボットは複数の人間と会話し、さらに舞台に出入りを繰り返す。観客に物語を伝えきったロボットとともに、生身の役者たちの精密な演技が強く印象に残った。急遽、上演が決まった「アンドロイド演劇『さようなら』」は、短時間のシンプルな舞台だったが、トリエンナーレ中盤に新たな話題を提供し、名古屋に滞在していた多くのアーティストを刺激したはずである。
海外勢の先陣を切ったデルガド・フッシュの舞台『桃色のズボンと赤いヌバックの先の尖ったハイヒールをはいて、襟ぐりが緩んだセーターの上に着た空色のウールのロングコート』は、1日では見きれないほどの展示や、最新科学のロボット演劇を見て、力んでいた鑑賞者の肩の力を思い切り抜いてくれる気持ちの良い時間だった。「構えずに気軽に、アートを楽しめ!」と宣言するような作品は2カ月たった今、思い出しても顔がほころぶ。ただし、その老若男女全員を笑顔にした彼らのユニークなステージは、鍛え上げた肉体と考え抜かれた振付によって作り上げられていたことを、しっかり明記したい。(撮影:南部辰雄)
2年前、アヴィニヨン演劇祭で絶賛を受けたというヤン・ファーブルの『Another Sleepy Dusty Delta Day ~またもけだるい灰色のデルタデー』は、日本初演。石ころ、模型列車、鳥籠などが作り出す空間も印象的だが、やはりアルテミス・スタヴリティのダンスが忘れがたい。金沢21世紀美術館での作品と合わせて、ヤン・ファーブルの表現の幅広さを堪能したアートファンも多かったのではないだろうか。
ローザスも代名詞と呼べる代表作『ローザス・ダンス・ローザス』を披露。機械的なようでいて、人間らしく繊細なダンス。気だるい表情、ピクリと引き攣る指、ずり下がる服。完璧な位置関係を保ちながら踊るダンサーたちに生じる小さな動きの何もかもが、心を騒がせる。(撮影:南部辰雄)
チェルフィッチュ、ニブロールら日本勢は、代表作ではなく、新作に取り組んだ。それも、今まで高い評価を得てきた作品世界の延長ではなく、新しい表現への挑戦の場として、トリエンナーレに臨んだようだ。チェルフィッチュの『わたしたちは無傷な別人である』は、特徴とされてきたダラダラとした若者言葉にかわる新しい作劇が深化した姿。舞台上の役者の身体と言葉を見聞きしながら、観客も「表現する行為の本質」を不断に意識し続けなければならない、なかなかしんどい濃密な時間だった。それでもテーマは、現代の幸福や格差社会など、この国の中心課題を掴み取った力作。
ニブロールの『THIS IS WETHER NEWS』も、多くのダンサーがハイスピードでエネルギッシュに行き交う圧倒的な緊張感や高揚感は意識的に廃され、一人ひとりのダンサーにじっくり焦点を当てた新しい表現になった。振付、映像、音楽、衣装と、今まで、それぞれ過剰なまでに舞台上に放出されていたセンスが、本作では全担当がゼロから表現に取り組んだかと思わせるような新作。チェルフィッチュやニブロールがこういった舞台を披露することは、招聘したトリエンナーレ側も十分に理解していたことだったと思う。それでも彼らのエンターテインメントとしての魅力を味わえると楽しみにしていた演劇ファンには、少々、飢餓感が残った舞台だった。
梅田宏明の作品『Adapting for Distortion/Haptic』は、映像や音、照明がダンサー梅田をかき消してしまいかねない印象を与える舞台。それは梅田本人が意図していたことでもあるのだが、目の前で踊るダンサーの肉体に確かな存在感を持てなくなるのは、不安な体験だった。
舞台公演の掉尾を飾ったローザス制作の最新作『ドライアップシート(3つの別れ)』は、名曲、ダンサー、振付家、歌手、演奏家の複合や拮抗の過程が、そのまま観客に晒される実験的な作品。最先端であり、興味深いものだったことは間違いない。しかし「祝祭」の最後を飾る舞台としては、ふさわしかったのか、疑問も感じた。
ジャンルを横断し、最先端を目指す各パフォーミングアーツを見たからこそ、「オペラ」という古くから紡がれてきた「総合芸術」の素晴らしさを『ホフマン物語』で深く実感することができた。歌、音楽、美術、衣装、物語―。芸術が結集して作られた全5幕、休憩も含め3時間半の豪華絢爛たる舞台は、とても贅沢な観劇体験。愛知芸術文化センターだからこそできる奥行きと高さのある舞台装置は、圧巻だった。重厚さよりも軽やかなオペレッタのイメージがあるオッフェンバック作品には、喜劇、悲劇両方の魅力が詰め込まれていた。作品の選択も、慧眼だったのではないか。(撮影:中川幸作)
地元愛知で活躍するアーティスト、団体のステージは「祝祭ウィーク」として集中的に上演された。特に印象に残ったのは愛知県一宮市出身で、今年の岸田戯曲賞を受賞した柴幸男が、オーディションで選んだ愛知の女優8人を演出した舞台『あゆみ』。一人の女性の人生を、女優たちが入れ替わりながら演じていく。一生を演じるのみならず、時に時間を逆行して、ありえたかもしれない別な選択肢を進んでいく。例えば、いじめにあう友達に言えなかった謝罪、片思いの先輩に言えなかった告白。その言葉を発した時に進む方向の鮮やかな分岐が、確かに観客の目にも見えるのだ。めぐるましく入れ替わる役者の錯綜した動きと相まって、眩暈に似た陶酔を感じる。そして選択したかもしれない全ての道を肯定する力強さに感動する。(撮影:羽鳥直志)
名古屋・大須の地で、長きにわたりアーティスティックな演劇を支えてきた「七ツ寺共同スタジオ」は、トリエンナーレ共催企画「往還~地熱の荒野から」を開催した。美術展示をそのまま舞台として効果的に使い、まだ日本に馴染みのないサラ・ケインの二つの戯曲を複合させた、にへいたかひろ演出の『4時48分サイコシス/渇望』は、トリエンナーレが設定したパフォーミングアーツのテーマに、七ツ寺側が真正面からフルスイングで打ち返した痺れる回答。
もう一つの作品『りすん』は、愛知県在住の芥川賞作家・諏訪哲史の同名小説を、少年王者舘の天野天街が演出した舞台。『りすん』は、小説でしか表現できない芥川賞受賞作『アサッテの人』のテーマを失わずに、物語化した試み。精緻な言葉で組み上げられたこの「物語」を、愛知の演劇人が見逃すわけはなかった。愛知弁の会話がこれほど心地よく、面白く、しかし重みを持って届くとは。日本各地での上演を期待したい。(撮影:羽鳥直志)
ギャラリーを中心としたパフォーマンスにも多くの注目作があった。女性たちが笑い続けながら、刺激的な言葉が書かれたダンボールを貼り付け、壁を埋めていくラ・リボットの『Laughing Hole』は、昼12時から午後6時までの長時間に及んだ。商業作品ではありえない時間設定に、アートの凄みを感じさせた。
ソニア・クーラナの『Lying-down-on-the-ground:additional notes』は、公共の空間にアーティスト本人が、無防備に横たわる。来場者は自分も横たわることで、鑑賞者からアートの一部になる。事前にパフォーマンスがあることを知らずに、作品に出会えた人はラッキーだ。
忘れられないのはスティーヴン・コーヘンの『Chandelier』。シャンデリアを身に纏い、生きた彫刻となったコーヘンの姿から目を離すことができない。感じ取れるのはアートの永遠性ではなく、ただこの瞬間の人間や世界の悲しみだ。現代アートとパフォーミングアーツの祭典だった「あいちトリエンナーレ」を体現する作品。日本、名古屋の文化から、彼のようなアーティストは生まれるのだろうか。
街の中を舞台にしたパフォーマンスにも、トリエンナーレを代表する作品が多かった。
まことクラヴのパフォーマンス『長者町繊維街の日常』は、メイン会場の一つ、愛知芸術文化センター地下から始まり、栄の地下街を駆け抜け、もう一つの会場・長者町の衣料品卸会社の荷捌き場でフィナーレを迎えた。買い物客や仕事中の人々は、いつの間にか「あいちトリエンナーレ」を鑑賞させられてしまった。
野村誠の『プールの音楽祭』は、小学校のプールを使ったパフォーマンス。水面と竹筒を使った繊細な演奏や、全身を使って水面を叩くダイナミックなリズムなど、新鮮な音楽アートを次々に披露した。
街の中では、パフォーミングアーツの他にも様々なイベント(インスタレーション)が行われた。
最も人々の注目を集めたのは、名古屋城二の丸広場でのイベント『spectra[nagoya]』だろう。64台のサーチライトによる成層圏まで到達する強烈な白色光と、10台のスピーカーから出力される音の波を組み合わせ、都会の真ん中に巨大な光のタワーが出現。名古屋市外からも見える光はトリエンナーレの中でも、最もスケールの大きな驚きを提供した。アートを積極的に楽しむ人も、仕事を終えて会社を出た人も、夜遊びに家を出た人も、等しく名古屋の空に伸びた光の塔を「体験」したはずだ。
名城公園で行われた『星のこもれ陽プロジェクト』は、クレーンで吊り上げた大型ライトから星型の光を照らし、葉と葉の間から降ってくる「星の形のこもれ陽」を鑑賞するイベント(ワークショップ)。遊園入り口で白いシートが張られた「星取り網」を手渡された来場者は、藤棚の葉の間からこぼれる星形の光を手元に映し、幻想的な光のアートを楽しんだ。
最後に紹介したいのは、長者町会場で開かれた「長者町ゑびすまつり」。10年前から続く街の祭りとアートが合体。繊維街らしい出店が並ぶ通りのあちこちで人々がアートを楽しむ風景は、確かに「祝祭」だった。
トリエンナーレの72日間は終わった。広範囲、長期間の展示だけに、細かな問題はいろいろとあった。開催時に鑑賞ができなかった作品や、隣接した音声の大きな作品の影響で、順路が変更になった展示などがあった。また野外展示作品を、わざと倒して逃走した人間が出るなど、鑑賞する側のモラルを問われる事件も起こっている。
トリエンナーレの最終週には、名古屋市美術館でスタッフと市民が話し合う場が設けられた。ビッグイベントに参加した感動が多く聞かれたが、ボランティアの体制や市民参加の在り方など、課題を指摘する意見も少なくなかった。取材中、名古屋市民からは「トリエンナーレを世界へ発信しよう」という力強い声も耳にした。だが、その前に県外や東京などメディアの中心地で十分に報じられたのか。2010年を代表するイベントとして全国的に話題になったのか。そして愛知県が今後、「日本を代表するアートの発信地」になっていく印象を、県外の人々が持ったのか。
残念ながら、第1回目の「あいちトリエンナーレ」は、そこまでの評価を生むことができなかったのではないか。これは回数を重ねれば自然に解決される問題ではない気がする。かつて「名古屋国際ビエンナーレ・アーテック」という芸術イベントが5年に渡り、この地で行われたこと、その成果を、日本中のどれほどの人が覚えているだろう。名古屋市民ですら、1991年のグランプリ作品『砂漠の泉』が、長者町の綿覚ビルに展示されることになって、久しぶりに思い出したのではなかろうか。トリエンナーレのさらなる発展のためには、アートイベントに価値や意義を見いだしていく積極的な意志が、もっと多くの市民に求められる。同様に市民が一体感を持って参加する題材が「アートイベント」であるべきなのかも、常に厳しく考え続けていく必要があるだろう。
同時期開催で同じく30万人を目標としていた「瀬戸内国際芸術祭」が、105日間で達成した93万8246人という数字との差も気になるところ。コンセプトも違うし、あまり数字にこだわるべきではないかも知れないが、交通の便も良く、参加アーティスト、展示作品も多いあいちトリエンナーレが、多数の観光客を呼べなかったのは残念だ。瀬戸内国際芸術祭と、2009年に37万5311人(50日間)を集めた「越後妻有大地の芸術祭」は、ともに北川フラム芸術監督がプロデュースを担当。自然の中での野外アートをメインにした観光型の芸術祭だ。山(農村)と海(島)の両芸術祭は、対の関係のアートイベントとして今後、浸透していくと予想される。
では「あいちトリエンナーレ」は、より都市の中央に集中していくべきなのか、大規模な長期野外展示ができる会場を求め、市外に拡散していくべきなのか。自然に目を向ければ、愛知県内には豊富な素材がある。例えば「アートの島」として高い評価を得ている佐久島や、今回のトリエンナーレで島袋道浩の作品制作の舞台になった篠島など、魅力的な島々がある。奥三河山村部の新城市・設楽町・東栄町・豊根村は、アート企画「きてみん奥三河」で今も野外アートを展示中だ。どちらの地域も、2009年から2010年にかけて「あいちアートの森」として展覧会場になった場所で、野外アートの種子が芽吹き、育っている真っ最中だ。
愛知県には大都市の景観とハイレベルな美術館、劇場があり、山、森、海、島の風景がある。そして歴史や史跡がある。「トリエンナーレを取材、撮影したら、そのまま愛知県内各地の何でもアリの魅力を伝えることになった」。第2回はそんな祝祭にも期待したい。
さて、2回に渡って「あいちトリエンナーレ2010」をリポートした。舞台公演はもちろん、屋外展示のほとんどの作品は、同じ形で二度と見ることができないだけに、アートに人々が触れた瞬間を記録することが、とても重要だと感じた。今後のトリエンナーレに向け、報道する側の能力も高めていかねばならない。
次回トリエンナーレでは、市民アーティスト参加の企画とともに、市民記者の多彩なリポートも格段に増える予感がしている。「あいちトリエンナーレ2013」は、3年後に開幕だ。
プロフィール
竹本真哉 フリーライター。元「名古屋タイムズ」芸能文化部記者。