第1回全日本フォークジャンボリーは1969年8月9日土曜日、岐阜県恵那郡坂下町(現在は中津川市)にある椛の湖の湖畔にて開催された。60年代に開催された世界的な音楽イベントとしては、アメリカのニューヨーク郊外で開催されたウッドストック・フェスティバルが著名だが、第1回全日本フォークジャンボリーが開催されたのは、そのちょうど一週間前であった。
イベントを企画したのは、中津川労音事務局長だった笠木透さんや事務局次長の安保洋勝さんなど。彼らは中津川市にフォークシンガーをたびたび招聘していたというが、そのなかで自然と沸いてきたのが、野外でのフォークコンサート開催というアイデアだったという。企画、演出、運営を自分たちで行うだけでなく、初年度は会場を開墾することからスタート、まさに手作りのイベントだった。今でこそ個人イベンターによる野外音楽イベントは珍しくないが、当時、こうした催しは大手の興行会社が運営するのが通例だった。60年代の音楽シーンのなかで、このイベントが異彩を放っていたことは想像に難くない。五つの赤い風船、遠藤賢司、岡林信康、高田渡などが出演した初年度は約2,500人を動員。二回目は約8千人。最後の開催となった3回目は、なんと2万人を越える動員を記録するまでに至った。
これほど若者の支持を得た背景としては、自らの手で企画、運営まで行うイベント方針がその要因に挙げられることが多い。確かに当時、こうした文化活動はイデオロギーを重視して見られる傾向にあり、確固としたイベント趣旨を持つこのフォークジャンボリーは、若者に好意的に受け止められたのだろう。今でもその盛り上がりは、当時の世相を表す社会現象としてよく取り上げられている。また岡林信康、遠藤賢司、吉田拓郎らが名演を繰り広げ、はっぴいえんどやはちみつぱいなど、現在のシーンでもカリスマ的な存在が多く出演。音楽面、世相面の双方で、半ば伝説化した音楽イベントとして今では広く知られている。
しかしそうしたイデオロギー重視の側面が、第3回目では最悪のカタチで表れてしまう。小さな会場にそのキャパシティを上回る観衆が詰め掛けたこと。悪天候だったこと。様々な要素が重なり観衆の不満が爆発。アーティストの出演順やステージ分けを巡り、観衆の一部がステージを占領し主催者と討論する事態となってしまった。
21世紀の今となっては、出演順やステージ分けに少しの不満を感じたとしても、それを公演途中に観衆に問う、という絵は想像しにくい。大人になった、ファンも含めたシーンが成熟したとも言えるし、当時のシーンには今に無い若さ、青さがあったという言い方もできるかも知れない。
とにもかくにも第3回目はステージが観衆に占拠され、当然、イベントの続行は不可能になった。この年は3日間にわたり開催される予定だったが、2日目のこの事態もありイベントは中止。それ以来、フォークジャンボリーがこの地で開催されることは無かった。40年という時を経た今だからこそ冷静に思えることではあるが、アーティスト、運営サイド、オーディエンスの関係性を考えさせられる、非常に興味深い現象であったと言える。
ちなみに当時は、フォークコンサートの途中でこうした討論会に突入することが、少なからずあったという。時代の違い、と言うしか無い。しかし全日本フォークジャンボリーの場合、「よくあること」と次の年に何事もなかったかのように開催するには、あまりに規模が大きく、そして影響力が大きいイベントだったのだろう。フォークファン夢の音楽イベントは、3年で終焉することとなった。
そして、このイベントならではの後日談がある。日本のフォークはその後のニューミュージックとの関わりが深く、現在の音楽シーンのルーツをたどると、当時のフォークシーンにたどり着くことが多い。これは団塊の世代と呼ばれる人々の多くに共通することだが、いわば当時“反体制”を掲げていた人の多くが、今は体制側にいることになる。しかし全日本フォークジャンボリーを企画した人々は、東京に出ることも無く、その後も同じように中津川市に住み続けたメンバーが多かった。そして実はこれが、40年ぶりに同じ地でフォークジャンボリーが復活する布石にもなったのである。
40年ぶりにフォークジャンボリーが復活するにあたり、僕は開催間近の7月上旬、会場である椛の湖のほとりに一度足を運んだ。写真や映像でかつての風景を目にしたことはあったが、実際に足を運んだのはこれが初めてだ。そこは、緑あふれるとてものんびりした場所だった。
フォークジャンボリーが開催された40年前はまだ開墾直後であり、完全に露出した地肌の上に観衆が座り込んでいた。削られた丘にも若者は詰めかけており、その頂上には政治的なメッセージが書かれた幟が並べられていた。それは大げさに言えば、戦場すら連想させる風景に思えた。現在の会場は芝生に覆われ、幟が並んでいた丘にも多くの木々が生えている。とても穏やかな風景で、そのギャップは40年という月日を実感させてくれるのに充分なものだった。
当時、仮設のメインステージが作られた全く同じ場所に、10年ほど前に常設の野外ステージが作られた。今回のメインステージがここになる。奥には小さな広場があり、そこにサブステージが設置された。あの吉田拓郎が1971年に「人間なんて」を歌った伝説のサブステージも、同じエリアに設置されていたという。なぎら健壱はこのイベントに飛び入り参加し、それがデビューのきっかけになったという有名なエピソードがあるが、今回もサブステージではアマチュアのフォークシンガーを募集した。
会場めぐりはほどほどに、主催者にお話をうかがうことにした。今回対応していただいたのは、実行委員会のメンバーであり、現在は椛の湖オートキャンプ場の事務局長も務めている古井実さん。古井さんはこのフォークジャンボリーを、社会人になったばかりの多感な時期に体験した。それも客席側からである。
当時を回想し、まずこう語ってくれた。「音楽イベントでもあり、一つの運動でもあった。当時は自分たちにも無限の可能性があったわけじゃない?それこそ我々はバナナ一本が貴重な時代も知っていたわけだから、世の中全体が前を向いていた」。そして古井さんはその後、現在についてこう付け加えた。「今はすべてがあった時代から、無くなっていく時代」と。
一番気になっている点、そんな時代にもう一度フォークジャンボリーを開催しようと考えた理由を尋ねてみた。「確かにこういう時代になって、経済も人間も元気がない。でも、だからこそ40年たって、もう一回やってもいいんじゃないかと思えたんです。当時、何でそんなに楽しかったのかと思えるぐらい楽しかった。60~70年代の若かりし頃をもう一度という気持ちと同時に、それを若い世代に伝えたい思いもあるんですよ」。
現在、当時のフォークシンガーたちによるイベントは決して少なくない。偏見という意見があることを承知であえて言うなら、この不況下のなか、とても恵まれた環境にいるように思える観客たちが「若い頃を思い出せて楽しかった」と無邪気に楽しむ姿に、少なからず違和感が覚えることは確かだ。良くも悪くもあれほどイデオロギー先行で、娯楽では片付けられない存在だったもののはずが、週末の2時間を手軽に感動するための娯楽映画と変わらない位置付けになっているように感じるのだ。
しかしこのフォークジャンボリーを運営する人たちからは、そうした雰囲気を全く感じなかった。ぜひブログを見ていただきたいのだが、自分たちで会場を整備し、自分たちで飾り付けを作り、自分たちでTシャツを作り、もちろん自分たちでアーティストをブッキングする。要するに当時と変わらないコンセプトでイベントを作り上げていて、下の世代に見せたいという意思もある。そして面白いことにその手作りな企画趣旨は、近年増えている全国各地の有志たちによる音楽イベントのコンセプトとあまり変わらないことでもあるのだ。時代も世代も40年の隔たりがありながら、嗜好する音楽イベントのベクトルにそれほど違いが無いのは興味深いし、音楽の流れが一回りしたとも言えるかも知れない。個人的にはこの気付きだけも、ジャンボリーが最開催した意味があるのでは無いかと思う。
(写真=当時について語る古井さん。マスコミの取材依頼の多さに驚いているという)
運営コンセプトは同じでありながら時代は違う。60年代はまだ野外の音楽イベントが少なかった時代だが、今は大手の野外フェスティバルが乱立する時代だ。先述したように、全国各地の有志たちによる手作りイベントも多い。それら現在の音楽フェスは、逆に彼らにはどう写っているのだろうか。
「フジロックとか、すごくファッショナブルでいいよね。着ている服もみんなオシャレだし、テントも本当に色々なものがあるしね。いいよねぇ。当時はアウトドアというか…本当にお金が無かっただけだから(笑)。みんな会場でそのまま寝袋で寝たし、駅は寝袋でいっぱいだしもうぐちゃぐちゃだった(笑)。でも何となくだけど、僕は20代の子たちのほうがちゃんと話ができる気がする。感覚的に合う。例えばベンツに乗りたいとか、そういうブランド的な発想があまり無いじゃない?アウトドアに興味がある子も多いし。実は今回、若いスタッフもけっこういるんですよ。イベントに対しての見方も違うから、だからいろんな意見があったんです。今は若いフォークシンガーもいっぱいいるし、そういう人を出そうとか。今回の出演者は当時を知る人が多いんですが、この先続いていくことができるなら、そうやって変化していくのもいいと思いますね」。
再開催というだけでもひとつのニュースだが、彼らがすでにその先を見ていることには驚かされた。「40年たって懐かしいじゃ駄目ですよ。それをどう繋げていくのか、それが新しいムーブメントにもなっていくし。正直若い人たちの音楽を聞いて、ついていけなかったり、果たしてこれはどうなのか、と思うこともある。でも当時もそうだったけど、おじさんたちには分からないものなんだよね(笑)。だからそれが時代ならいいと思う。僕らもそうして時代を作ってきたわけだし」。
もちろんこの再開催に際して否定的な意見もある。今開催しても当時の良さは無い、ただの同窓会になる、逆にただの同窓会でいい、など。しかし、とても朗らかに語る古井さんは、そんな賛否両論すらも楽しんでいるように見えた。ちなみに古井さんは、我夢土下座として当日のステージにも立った。まだまだ元気である。
(写真=イベントTシャツもすべて手作り。毎日少しずつプリントしていた)
迎えた2009年8月1日、この日は朝から雨だった。今年はご存知のように梅雨明けが遅れたため、行楽、フェスシーズンと完全にかぶってしまった。実は一週間前のフジロックフェスティバルで散々雨に打たれたこともあり、当日は少々憂鬱な気分で会場に向かった。そしてフェス慣れしている若者ならまだしも、年齢層の高さが予想されるこのイベントが中止にならないのか、お客さんの雨対策は大丈夫だろうか、などの懸念もあった。
しかし会場に着くと、完全に杞憂であることに気付く。会場は昼からかなりの土砂降りだったが、開催中止になる気配は全く無し。お客さんもしっかりとした雨具を身に付けている方が多かった。後ほど聞いたのだが、’69年の第1回開催時も大変な雨だったという。考えればこのフォークジャンボリーは、現在乱立する夏フェスの40年も先輩なのだ。僕のような若造の心配など完全なお門違いだった。
会場スタッフの雨対策も早い。雨宿りできる場所が足りていなければ、付近の竹を組み立てすぐさま屋根を作る。道がぬかるんで歩行が困難になれば、木材で歩行用の通路を作る。正直、現在のフェスには見られにくい対処の早さに感心してしまった。公演自体も雨の影響を全く感じさせず、スムーズに進んでいく。驚いたのは、若い層のお客さんが意外に多かったことだ。ちなみにこの日は、邦楽フェスでは日本最大規模の「ROCK IN JAPAN FESTIVAL」と同日。出演者の親類か、もしくは付近に住む方々かも知れないが、そんな日に若いオーディエンスの姿がこれほどあるのは驚かされた。そしてサブステージで行っていた応募制のライブにも、若い出演者が多く見られた。
「中津川フォークジャンボリー」というイベントが持っていた価値は、古井さんの言うとおり若い世代のほうがむしろ共感できるものなのかも知れない。当初はのんびりしたムードで進んでいたフォークジャンボリーだが、早川義夫+佐久間正英が登場したあたりから俄然熱を帯びてくる。夕方頃からは奇跡的に雨も止み、あがた森魚は「赤色エレジー」で会場を沸かす。なぎら健壱、加川良、五つの赤い風船は代表曲をしっかりと披露し、会場は大合唱に包まれる。その風景は未体験の僕にも、当時の風景を連想させるものだった。メインアクト的な位置づけだった遠藤賢司は、当時と変わらない、しかしいつの時代においても刺激的であろうアクトを披露。圧巻のパフォーマンスを詰め掛けた観衆に見せ付けた。
約1,200人を動員した今回、雨天という環境のなか大きなトラブルも無くイベントは終了した。動員、運営、どちらの面でも成功と言えるのでは無いだろうか。
正直、事前にこの会場に足を運んだ時は、当時の雰囲気とあまりにかけ離れていたこともあり少々拍子抜けした。しかし会場にフォークファンが詰めかけた時、かつて見たフォークジャンボリーの映像や写真と、何度か風景がシンクロする瞬間があった。雨のなか、オーデェエンスが五つの赤い風船の楽曲をともに口ずさんだ光景を見た時、このフォークジャンボリーが神話性を持つに至ったエネルギーが少し分かった気もした。
会場にはフォークジャンボリー資料館が作られ、当時のチケットや雑誌記事などが展示されていた。それも当時をしのぶのに充分な興味深いものだったが、実際に当時のアーティストがステージに立ち、当時詰め掛けたであろう観衆が会場に足を運ぶ。それを体験することに勝る資料はない。今回少なからず詰め掛けていた未体験世代がそれをどう感じ取ったのかは気になるし、古井さんが語った「それをどう繋げていくのか」は、そこにポイントがあると思う。
個人的な感想としては、確かにジャンル、国際性、規模では現在の野外フェスの足元にも及ばないのだろうが、ひとつのアーティスト、果ては1つの楽曲を全員で味わう一体感は、現在のフェスにはないものだった。再開催のニュースを知った時は、志を理解する若いアーティストをどんどん出すべきと思ったが、参加した今は、この雰囲気を壊さないことが何より大事に思える。ただサブステージの若いフォークシンガーに拍手喝采を贈っていた観衆が、現在のフォークシンガーにどんな反応を示すのか。そんな化学反応は見てみたい。少なくとも、そうした次への期待を抱かせるイベントであったことは確かだ。
来年開催されるのかはまだ分からないが、40年前とはシーンが違うからこそ、再開催される意味は大いにあると思う。来年も開催されるのであれば、ぜひまた足を運んでみたい。「ROCK IN JAPAN FESTIVAL」や「SUMMER SONIC」と同日であっても、また行くつもりだ。
PROFILE
阿部 慎一郎
尾張旭市在住 音楽編集兼ライター。某チケット誌で主に活動中。