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名古屋唯一の寄席「大須演芸場」が閉館~足立秀夫席亭にインタビュー

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1965(昭和40)年の開館以来約50年にわたり、名古屋の寄席の灯を守ってきた大須演芸場が、201423日、閉館を迎えた。1973(昭和48)年から二代目席亭として同館を切り盛りしてきた足立秀夫さんに話を聞いた。

 足立さんは大須演芸場の約半世紀の歴史の中で41年間を経営者として過ごしました。
 たくさんの出来事があったので、どこから話せばいいのか。197311月に、当時経営に苦しんでいる初代席亭に声を掛けられて二代目経営者になった。土地も建物も購入できれば良かったのだが、結局1カ月30万円の家賃で賃貸契約。最初の23年はずいぶんお金をつぎ込んだことを思い出す。
 何度もつぶれそうになり、ぎりぎりで続いてきた日々。1985年にも裁判所に営業取り消し処分を受け、執行官が来た。あの時は芸人たちからつぶされてたまるか、俺たちの力で死んでも守るという熱意がひしひしと伝わり、逆境を吹き飛ばすことができた。
 建物が競売にかけられたこともある。2000年頃、建物の権利を持っていた金融業社が、他の業者から金を借りるために演芸場を担保にした。その後、業者が倒産してお金を返せなかったので、競売になった。土地もない築50年になる建物に買い手はいないと思ったが、落札した人がいた。今度はそちらに賃貸料を払うようになり、その時も何とか寄席が存続できることになった。



 閉館に至る経緯を聞かせてください。
 この演芸場は無くしたくないという多くの方の応援で、もっていた場所。冷暖房も椅子席も、援助に頼って設置した。新しい建物所有者もここを守るために善意で買ってくれたのかなと、虫のいいことを考えていた。
 経営がだんだん苦しくなり、滞納がたまると所有者が調停を申し立てた。滞納分は分割して月に56万円ずつでも払っていくこと、家賃を20万円に下げることが、2011(平成23)年6月に決定。それでもなかなか滞納を返すことができなかった。
 出ていくことになってしまうとは夢にも思わなかったが、調停で決まった約束。やめたくなかったし、使い続けさせてほしかったので、とても残念だ。
 あらためて41年間を振り返って、どんな日々でしたか。
 非常識に聞こえるかもしれないが、お金をもうけようと思ったら寄席の経営など商売にしない。昔は値切れる芸人もいっぱいいたが、師匠を値切っていたのに、その弟子になるとかえって値切りにくい。さらに弟子ともなると、分からない人も多くなった。負けてくれと気安く言える相手もいなくなった。みんな死んじゃったからね。
 自分は修業して支配人になったわけではなく、いきなり経営者になった人間で、うまく頭を下げられない。本当のプロの小屋主だったらできるはずだが、性格は変わらなかった。今まで出てくれた人は、こちらが頼み込むのではなく、向こうから「出るよ」と言ってくれた人たちばかりだった。

 大須演芸場では寄席以外にも、ロック歌舞伎、大衆演劇、最近では名古屋おもてなし武将隊の出演など、多彩な舞台が行われました。
 公演してもらえたら赤字の補てんになるので、ありがたかった。でも、本当は寄席のみをやりたい気持ちもあった。この商売は田んぼに水を引くようなもの。ちょろちょろでもいいから絶対に絶やしてはいけない。寄席に来たつもりが別なジャンルの舞台をやっていたとなれば、来なくなることもある。
 「いつ行っても寄席をやっているよ。大した面白くなかったけれども、一組、気に入った芸人がいたよ」と言ってもらえるような寄席を、歯を食いしばって毎日続けるべきだったのかもしれない。
 昨年は御園座が建物を取り壊し、今回は演芸場の閉館。それぞれ事情は違うが、名古屋の芸能ファンには残念なことが続いています。
 大須には江戸時代から芝居小屋が立ち、明治時代には橘座はじめ、芝居の街として大きく盛り上がった。御園座ができてからは一流役者を奪われたが、大衆演劇などで活況は続いた。大須から寄席が無くなる日がくるのは残念だ。
 名古屋に文化が花開かないのは、江戸と上方の真ん中という地理的条件があるかもしれない。江戸の役者が上方に下る時に、名古屋で一発テストをやって、勢いをつけてから行く。上方の役者が江戸に行く時も同じ。名古屋の人は自分たちで苦労して作り出さなくても、居ながらにして東西のいいものが見られた。おかげで目や耳が肥える客は増えたが、東西の役者の動きの違いとか細かなことを語る評論家気質の街が出来上がった。
 恵まれていない土地は、地元で芸能を作り出す。九州や東北に行くと、その土地らしい芸能が育まれている。名古屋固有のものは、なかなか生まれていない。
 また、名古屋の人は自前のものを低く見る傾向がある。名古屋生まれ、名古屋育ちの芸人が力をつけても、あまりお金を払わない。でも、その芸人が東京に行ってから帰って来ると、高いお金を払って見る。東京から来たと言うだけで値打ちがついてしまう。
 大須演芸場が名古屋に残したものは何でしょうか。今後のことも教えてください。
 まだ回想はしたくない。回顧録は意地でも書きたくない。閉館後は芸人を連れて営業をするつもり。今まで、演芸場での興行、他の会場での主催公演、出張公演の3本の柱でやっていた。閉館で大切な柱が一本無くなるが、演芸の仕事をやめるわけではない。建物は失ったが「俺が行って仕事をするところが演芸場だ」という気持ちでいる。だから長年お世話になりましたとは誰にも言っていない。芸人たちとも湿っぽい話はしていない。
 演芸場をやっていたからこそ、営業の仕事も来ていた。本当に大切な場所だった。しかし、41年やってきたので声を掛けてくれる人もいる。新規の顧客はなかなか増えないだろうが、死に物狂いで頑張ろうと思っている。

 名古屋で芸能を作っていく人たちに期待することはありますか。
 寄席のような仕事は難しくなっていくだろう。劇場を経営して興行を打とうと考えたら、出演者は東京か大阪から呼ぶことになる。例え出演料を安くお願いしても、交通費は減らせない。東京や大阪は地元に芸人が大勢いるからできるが、地方都市では難しい。名古屋にせめて100組の芸人がいれば、東京や大阪からは12組呼べばいい。しかし現状、そんなにいない。
 それでも、芸人の修業の形態が徒弟制度から芸能学校などに大きく変わっても、そこから新しい才能が生まれている。今後も時代にふさわしい形態で、優れた興行、演芸が生まれてくるはず。
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 美容整形外科を経営する高須克弥さんが滞納分の賃料を肩代わりすると申し出たことで、演芸場には再び寄席として再開の可能性も出てきた。しかし、長きにわたり、演芸場に足を運ぶ人が日に10人もいなかったのが現実でもある。足立さんのように逆境の中、観客と芸人たちと向き合い続けた人の経験を残していくことも大切だ。再び大須に芸能の灯がともることを期待したい。
記事 : 竹本真哉

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